ブルーオーシャンズの歴史


1992年
この年の秋、某電機メーカー研究所の同期入社仲間でチーム結成。メンバーは篠原、中村、伊藤、吉永、西本、星野、鍋島、宍倉、小原、大淵といったところであった。さらに篠原の友人である藤原と岡、さらにその友人の服部らが加わりチームとしての形を成す。また、篠原を中心とした幹部数名が相模大野の★☆店にて会談し、「ブルーオーシャンズ」というチーム名を決めた。その後、とりあえず練習試合をいくつかこなしてチーム初年度を終える。

1993年
マネージャー(萬行・平川)も加わり、スコア集計も始めて本格的な活動に入る。初代主将に岡が就任。主な対戦相手は、ナチュラル、相模キッドブラザーズなど。平塚球場や相模原球場など、プロも使用する本格派球場での試合もあった。また、某電機メーカー研究所内の「中研リーグ」に加盟。さらに国分寺市野球連盟にも加盟し、Cクラスのトーナメントに参加するも、無惨な敗戦を繰り返す。この年、熊谷・大高・小田切らが新加入。また、夏には「いこいの村あしがら」で第1回合宿を開催。丸2日間の猛練習をこなした。12月には「しちりん亭」にて納会を行ない、初代MVPに藤原を選出。賞品はドラえもんの着ぐるみであった。

1994年
中研リーグ、市民大会とも、多少は勝てるレベルになってくる。第二代主将に服部が就任、「四番ピッチャーおれ」の名言を残す。夏には九十九里で第2回合宿を開催。民宿での熱い議論は後々までの語り草となるが、練習は一日のみで翌日は海水浴となり、後年の合宿の基本パターンとなった。この年の新人は、阿部・細野・上野ら。「和田蔵」で行なわれた納会では、伊藤が文句なしのMVPに選出されるとともに、次期主将にも決定し、翌年のチーム運営について更に熱い議論が続けられた。

1995年
第三代主将に伊藤が就任し、これまでの放任型経営からの大きな脱皮を図る。この年、チーム創立の立役者・篠原が神戸に帰るためにチームを離れるが、代わりに直江・ミシャという二人の強力新人が加入。特にオランダからやってきたミシャの真摯な練習態度は、チームに大きな変革をもたらした。主将のリーダーシップと新人の活躍の相乗効果か、秋の国分寺市市民大会Cクラスで優勝、ついにBクラス昇格を果たす。中研リーグでも優勝争いに加わるようになり、この年ブルーオーシャンズは第一次黄金期を迎えた。なお、9月にはチーム有志が茨城で行なわれたビーチサッカー大会に参加、一部選手のスタミナ不足が露呈するという一幕もあった。この年の納会会場は「飛騨」。MVP争いは混戦となったが、三冠王の大淵を抑えて、市民大会優勝に貢献したミシャが獲得。「ナインティ〜ン、ナインティーファ〜イブ」の名言とともに表彰された。

1996年
第四代主将に大淵が就任するも、前年の篠原に続き、服部・ミシャと立続けに主力選手が東京を離れ、人数集めにすら苦労することとなる。二本柱が抜けた投手陣には細野が抜擢され活躍するものの、昇格を果たした市民大会ではBクラスのレベルについていけず、前年の栄華から一転して苦しいチーム運営となる。新人として藤森が加わり、強力な打撃で貢献したが、すぐに出向元の長野に帰ってしまい戦線離脱。シーズン終盤になって加順が加入し、ようやく戦力が整い始める。「プリンセスライラ」で行なわれた納会では、史上初の4割台首位打者となった大高がMVPを獲得。

1997年
この年は、チーム設立以来のグレーのユニフォームを変更し、ドジャーブルーの上着の新ユニフォームで開幕を迎えた。第五代主将に中村が就任したが、シーズン途中で茨城に長期派遣となり、苦労の多いチーム運営となる。だが、前年からの新人勧誘活動が功を奏しはじめ、新田・古川・木村・金子・鈴木らが加入、チーム戦力は復活に向かう。夏には二年間中断していた合宿を山中湖にて再開、新人新田や説教魔加順などがブレイクする夜となった。その後、加順は仙台に転勤になるものの、野球への情熱は衰えず、年に数回の野球上京を続けることとなる。しかしこの年、中研リーグの衰退に伴い試合数は減少しつづけ、チーム存続の危機を迎える。そこで大淵が中心となって多摩地区の草野球チームに呼び掛け、TMリーグを結成。秋には数試合の練習試合をこなして翌年の本格始動に備えた。納会会場は「にほんばし亭」。2冠王の大淵が首位打者加順らを抑えてMVP獲得、2年前の雪辱を果たした。

1998年(12勝5敗2分)
第六代主将に阿部が就任。小林・池上・井筒という若い新入団選手を迎え、チーム活性化を図る。また、IT化の波を受けてチームのウェブサイトが開設され、電子メールによる連絡が急速に普及してきた。チーム力の充実に伴い、市民大会Bクラスでも上位に進出、さらにこの年はじまったTMリーグでは、ダークホースと同率で優勝という快挙を果たした。第4回合宿は軽井沢にて開催。この年、主将阿部自らが史上2人目(単独では初)の三冠王を獲得。「い志井」で行なわれた納会では文句なしのMVPを獲得した。

1999年(15勝6敗3分)
第七代主将に細野が就任。前年からの着実な積み上げで戦力が充実し、第二次黄金期を迎える。夏の間の不調がたたってTMリーグ二年連続優勝は逃すものの、秋になってからの快進撃で、ついに国分寺市民大会Bクラスで優勝。同時にAクラス昇格を決めた。また、那須スポーツセンターにて合宿を開催。第5回目にして初めての本格的な球場での開催となる。終盤には玉木・森山といった新人も加入。「しちりん亭」で開かれた納会では、3タイトル獲得の井筒が首位打者小林を抑えてMVPを獲得。

2000年(6勝13敗)
第八代主将に吉永が就任。部下の内角をチームに引き込む。前年に比べて大幅な戦力低下は無かったはずだが、春先から不調が続き、6勝13敗と大幅に負け越し。前年に続いて那須で行なった第6回合宿の成果も現れなかった。これは、市民大会でのAクラス昇格やTMリーグ各チームの戦力の底上げなどで、厳しい相手との対戦が続くようになった結果とも考えられる。95年から96年にかけてもそうだったが、黄金時代から低迷期への没落の早いことよ。さらに追い討ちをかけるように、秋には吉永主将と内角が渡米。新田主将代行が指揮を取るも、岡の両手首骨折や阿部のスパイク負傷などによる戦力低下もあって、厳しい状態のままシーズンを終えることとなった。98年に続き「い志井」で納会を開催。最多勝&打点王の細野を抑え、首位打者&盗塁王の伊藤が2度目のMVP獲得となった。MVPおよび首位打者を2度獲得したのは、いずれも伊藤が初めて。

2001年(8勝10敗1分)
第九代主将に古川が就任するも、前年からの不調が続き、苦しい滑り出し。シーズン初勝利はなんと6月23日であった。小林・池上の負傷による長期欠場に加えて、夏には藤原・細野が相次いで転勤で戦線離脱。さらに玉木までもが試合中の怪我で欠場と不運が続き、いよいよ試合の開催さえ難しくなってきたところで、ようやく新人勧誘活動の成果が出始める。初のインターネット新人となった落合に続き、嵯峨・藤嶋・大塚と、強力な新戦力を得た。夏には恒例の那須合宿。秋の市民大会では、野球連盟の連絡ミスによる不戦敗失格およびBクラス落ちという不運もあったが、後半戦はチーム成績も上昇しはじめた。9月には吉永が帰国、12月には、負傷の玉木と病気療養中だった内角も復帰し、翌年に向けて希望を持ちつつ「和楽亭」での納会を迎える。MVPには、秋になって猛打爆発、首位打者・打点王・盗塁王の三冠を獲得した落合が文句無しで選出された。

2002年(5勝11敗1分)
第十代主将に岡が就任。伊藤副主将、小林マネージャーとのトロイカ体制でシーズンに臨む。一年間の米国勤務となった大淵を欠くものの、安達、山家、松岡(シーズン途中で脱退)という新戦力を迎えた。怪我から復帰した小林も加え、シーズンを通して打線は例年になく好調ながらも、投手・守備力の問題からなかなか勝利に恵まれない。Aクラス復帰を賭けて臨んだ市民大会も、春秋連続してスカイフレンズの前に沈んだ。夏合宿は3年間続いた那須から白馬に変更。合宿先で初の公式戦も行なったが大敗し、唯一吉永が地元のおじさんに気に入られたことが収穫だった。結局シーズン成績は3年連続の負け越し。星の潰しあいとなったTMリーグでタナボタの同率優勝を勝ち取ったものの、決して満足な内容ではなかった。納会会場は「天松」、首位打者&本塁打王の阿部を押さえて、本塁打王&打点王の落合が、史上初の2年連続MVPを獲得。国士無双戦の大逆転満塁ホームランが強く印象に残った。

2003年(9勝9敗2分)
第十一代主将に小林が就任。新人加入はなかったが、大淵がアメリカから帰国し、唯一の全試合出場を果たす。チームは4〜5月を無難に乗り切ると、6月に始まった市民大会で打線が爆発。2試合連続コールド勝ちでベスト4に進んだが、Aクラス進出をかけた準決勝でスケルトンズに敗れた。すると夏から打線が徐々に勢いを失い始める。初めて秋に行なわれた鹿島合宿は、初日練習/2日目練習試合という充実した内容だったが、その成果もその後の試合には反映されず。シーズン前半のチーム打率は.270、後半は.210という急落だった。TMリーグは相変わらず一進一退の成績で、終わってみれば3勝3敗の4位。それでもチーム総合成績としては4年ぶりのシーズン勝ち越しを目指したが、9勝7敗から2連敗のあと、勝ち越しを賭けた最終戦が雨天中止、結局ちょうど5割で終わった。「あひるのたまご」で行なわれた納会では、打点王の古川を2票差で押さえた落合が3年連続でMVP獲得。今年は打撃不振だったが、それを補って余りある投手としての活躍が光った。

2004年(11勝8敗1分)
第十二代主将に大淵が就任。春先は不調で、初めて参加した草魂カップは2回戦敗退、TMリーグも2連敗という苦しい滑り出し、そしてこの年からB・Cクラス合併で「2部」に所属することになった市民大会でも、2回戦で伏兵・EBIROBAに敗れた。しかし7月3日のパワーズ戦に勝ったところから調子が出はじめ、10月10日の市民大会2回戦まで怒濤の7連勝。連勝が止まった後も、市民大会3試合連続コールド勝ちで準決勝進出。しかし、準決勝ではスーパーフィーバーズに敗れて1部昇格はならず。後から見れば、春・秋とも優勝チームに敗退ということで、クジ運にも恵まれなかった。シーズン終盤には新人・高峰も加わり、最終的には5年ぶりの勝ち越しでシーズンを終えることになった。「海宴丸」で行なわれた納会では、首位打者・盗塁王の小林を押さえて、最多勝・本塁打王・打点王の落合がMVPを獲得。これで4年連続のMVPとなり、「殿堂入り(する代わりにMVP受賞資格剥奪?)」という声もチラホラと聞こえてきた。

2005年(9勝9敗)
開幕前、8年ぶりのユニフォーム改訂が行なわれ、これまでの紺+グレーに代わり、紺ストライプの上下のユニフォームとなった。第十三代主将に就任したのは吉永。この年は、仙台から再び転勤で東京に帰ってきた加順がチームに復帰。また、久々のインターネット新人・井上の加入もあり、人材豊富な開幕となる。しかし、春の市民大会は3回戦で宿敵スカイフレンズにまたしても破れると、そこからチームの調子が下降し始める。特に打線の低迷ぶりはひどく、10月末には前代未聞のチーム打率1割6分台という有りさま。それに加えて、秋には玉木が渡米、中村と阿部が転勤になるなど、メンバーも揃わなくなってくる。秋の市民大会は2回戦でダッフンダに完封負け。しかもこの試合で古川が肉離れを起こして戦線離脱となる。それでもどうにか最後の数試合では打線も上向きになり、春先の貯金もあってチーム成績は9勝9敗の五分。「貴よし」で行なわれた納会は、参加者7名という危機的状況に見舞われながらも、逆にディープな野球談義で翌朝まで盛り上がった。MVPは唯一の3割打者となった加順が文句なしで受賞。落合の連続MVP記録をようやくストップさせた。

2006年(10勝5敗1分)
第十四代主将に加順が就任。シーズン序盤は人の集まりが悪く、勝敗以前の状況で、市民大会も初戦敗退。6月末時点でわずか4試合(1勝3敗)という状況。しかし、清水・冨永・大串の加入により人数が揃うようになると、勝敗も上向きはじめる。秋の市民大会こそ、7年ぶり対戦のリオンに土壇場で追いつかれてジャンケン負けとなるものの、この試合を挟んで4連勝-1敗-5連勝という快進撃。さらに秋には、井上(貴)・多田・村山・田代・清田と新人が加わり、年間合計8人の新加入というこれまでに無かった盛り上がりを見せた。この年は助っ人の参加も多く、年間記録を見ると、実に27人もが出場したシーズンでもあった。6年ぶりに「い志井」で行なわれた納会は、去年とはうってかわって15人もが参加して大盛会。首位打者&本塁打王の井上(敏)がMVPを取ると同時に、2年続けて「MVPが翌年の主将」という選考となった。

2007年(10勝7敗1分)
第十五代主将に井上(敏)が就任。開幕前からチーム内のルール整備に着手するなど、久しぶりの改革型政権となる。さらに、春にはチーム設立の立役者であった篠原が東京に戻ってきて、実に13年ぶりの復帰を果たす。この年からは、TMリーグの終了により、市民大会と練習試合とが活動の場となるが、春先は微妙に黒星が先行し、市民大会も初戦敗退という苦しい展開。しかし、夏ごろから打線の調子が上向きになると、エース落合のピッチングも好調に転じ、チーム成績も好転。秋季市民大会は3連勝で準決勝に進んだ。ちょうどこの頃、井上(敏)主将が家庭の事情で辞任、清水主将代行の指揮のもと、一部昇格を賭けたダッフンダ戦に臨んだが、惜しくも1点差で敗れた。「なかなか」で行なわれた納会では、復帰初年度に首位打者・打点王を獲得した篠原がMVPに選出。さらに3年連続でMVP=翌年度主将ということになった。

2008年(12勝13敗)
第十六代主将に篠原が就任。チーム史上初めて2月に開幕。また、国分寺市民大会では、脱退チームがあり補欠繰上げで一部昇格となる。春先は好調で4勝2敗として春の市民大会一回戦に臨むと、入団2試合目の新人船橋の活躍などで4対1の快勝。記念すべき一部での初勝利を挙げた。ところが、市民大会二回戦でスーパーフィーバーズにコールド負けしてから調子は一気に下り坂。5連敗から1勝を挟んで更に4連敗、秋の市民大会も国分寺上手にあっさり一回戦負け。11月後半の時点で借金4という状態だったが、ここから主将の頑張りで例年になく試合が入り、11月29日にダブルヘッダー連勝、12月6・13日を2勝1敗で乗り切り借金1として最終12月20日。ダブルヘッダー初戦を勝ち年間成績を12勝12敗の五分としたものの、最後は力尽きて第二試合を落とし、残念ながら年間成績は借金1。それでもチーム史上最多となる年間25試合をこなし、チーム設立17年目にしてなお野球熱の衰えないところを見せた。夏には「滝ヶ原で練習+奥多摩でバーベキュー」という新方式の合宿も開催。「赤ちょうちん」で開かれた納会では、落合が4年ぶり5回目となるMVPを受賞した。

2009年(17勝13敗3分)
第十七代主将に清田が就任。岡が広島転勤という驚きのニュースとともに迎えた開幕。それでも3月中に3試合をこなすが、2・3戦目のダブルヘッダーに連敗、しかも2試合目はノーヒットノーランを喫するという苦しい春先となる。その後徐々に調子が出始め、6月の市民大会では、強豪・日立超L相手に1対1の引き分けと善戦する。(残念ながら抽選敗退)その後、夏から秋口にかけては勝ったり負けたりの状態。田代の大阪転勤による戦力ダウンもあり、秋の市民大会も、ダッフンダに6対0と完敗だった。しかし、伊藤晋・堤・三宅・近藤・藤島という豪華新人5人がチームになじんできた10月から、チーム成績も急上昇。驚異的なペースで対戦相手探しを続ける清田主将の情熱とも相まって、10月24日から12月12日まで破竹の9連勝を成し遂げる。その12月12日は、チーム史上初のトリプルヘッダー、残念ながら第2・第3試合を連敗し、今シーズン2度目のノーヒットノーラン負けというおまけもあったが、最終的に31試合(もちろんチーム新記録)をこなしたシーズンを象徴する一日となる。終わってみると、チーム打率は.219で例年とさほど変わらないが、傑出した成績の打者がおらず、史上初の打率2割台首位打者誕生となってしまった。昨年に続き「赤ちょうちん」で行なわれた納会では、その2割台首位打者・清田が、1998年の阿部以来の「主将でMVP受賞」となり、大活躍の一年を終えた。

2010年
第十八代主将に船橋が就任。


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